お散歩日和の昼下がり

散歩中に考えてたことを気ままに書きます

星を継ぐ院生

 今回は国道1号、第二産業道路に沿って散歩しました。緑区というだけあって、対向車線が垣根で仕切られたのびのびとした道路が特徴で、歩いていて気持ちよかったです。本当は自転車で遠くまで走りたかったのですが、後輪ブレーキの異音が直らないので諦めました。

星を継ぐもの

 ネットで注文していたSF小説「星を継ぐもの」(ジェイムス・P・ホーガン)が近頃届きました。有名なので読んだことがある方もいるかもしれません。海外のSF小説は最後に読んだものが全く面白くなかったのでしばらく控えていたのですが、高評価が多かったので空き時間を探して重い腰を上げて(重い表紙をめくって?)読み進めていました。そうしたら、SF黄金期のヒット作だけあって、夢中になってあっという間に読み切ってしまいました。今回はこの作品について考えていたことを書くので、この時点で興味を持ってしまった方はネタバレにご注意を。

 本作品は40年前に書かれたSFで、2027年頃を舞台にしていてちょうど我々の想像の範疇に入る未来を描いています。だから一種答え合わせの気持ちで読んでも面白いわけです。月旅行のリゾート地が完成しているのに映像を映し出すのにブラウン管だし、一番気に入ったのはソ連が残っていたことですかね。40年前の人たちは崩壊するなど夢にも思わなかったのかもしれません。ちなみにヨーロッパはヨーロッパ合衆国になっていました。

 大まかなストーリーとしては、月で人間の死体が見つかり、同位体測定の結果5万年前のものだと判明してあらゆる分野の学者で協力してその謎を解くものです。同時に見つかった手帳の解読に言語学者 \pi eや光速のような宇宙に普遍的な定数から解読を手助けする数学者、骨格・臓器の構造の類似性から地球外生命体であるはずがないと主張する生物学者、その他科学者が一致団結して解決に急ぐ様子は手に汗握る展開です。

 個人的に特に気に入っている部分を紹介します。初めのうちのまだ言語の解読が全く進んでいない段階で、登場人物の一人が手帳の周期性に気づき、カレンダーに違いないと考えたのです。早くもカレンダーの日数からして地球ではあり得ず、1年がおよそ等間隔に区分されていることから月のような衛星が存在することまで突き止められたのです。しかも一年の日数からその星の公転周期や自転周期が割り出せるなど、カレンダーだけから次々の情報が引き出されていきました。もう一点は、長さの単位について。手帳に単位換算表のようなものが書かれていることが分かり、これは重要な情報だと思い至ったところで、その星の単位体系での例えば長さの単位の換算ができてもメートルに直せなければ意味がありません。そこで保険証らしきものはないかと探し始めたのです。死体の身長が書いてあればメートルに換算できるので!賢い!ほかにも、全く意味の異なる二語に同じ形容詞が割り当てられていると言語学者が気づき、そこから進化系統樹の秘密が明かされる場面も感動ものです。

 このような、想像もつかないところから解決の糸口をつかむ類の話が僕は結構好きで、この意味において「図書館の魔女」(高田大介)もお気に入りの小説です。こちらは図書館の魔女さんが一人で全て解決するパターンですが。酒場の客の話す言語の接続法の用法がおかしいことから彼らの来歴を推測したり、役人の言葉遣いから皇帝の名前を推測したり(皇帝の名前に使われている漢字を用いてはいけないという習慣が古代中国にはあった)と、文系寄りの内容になりますが。他に同様な小説ってありますかね?

 続編があるみたいなので今度読みます。

橋の上と橋の下

 初めての投稿になりますが、お散歩中などに考えていたことをせっかくなので書き留めておこうという意図で始めました。 書き留めるだけではブログにならないので、その解説も載せていきたいと思います。

新見沼大橋にて

 さて、新見沼大橋というのをご存知でしょうか。国道463号を東方向に進んだところ、芝川という川を跨ぐかたちで架かっているのですが、有料道路であるがゆえに検索すると「新見沼大橋 迂回路」とサジェストされる有様。通行料から利用を敬遠されている現状がwikiに書いてありました。

 COVID-19の流行で家に閉じこもるようになると、これが予想以上に疲労がたまるもので、通常時はほとんど行かない、駅から遠ざかる方向に気晴らしに散歩することが増えました。実はその国道463号が車道も歩道も広々としており結構お気に入りのお散歩ルートなんです。そんなわけでこの前、芝川沿いまで行ってやろうと意気込んで、新見沼大橋を渡るに至ったわけです。

 有料道路とは聞いていたのですが、歩道もちゃんと敷かれていて、河畔の田園風景と遮るもののない青空を堪能できるよきお散歩コースでした。自転車は通行料20円らしいんですがこれはギャグなのでしょうか。しかも橋の東側の入口にしかない料金徴収箱にセルフで20円投入するシステムで、西から入って西から出ればサイクリングし放題ですね。橋の入口出口が河畔から体感500mくらいは離れていたので、橋の上から芝川を眺めることはできたものの、橋を途中下車する手段がなかなか思い浮かばず、結局疲れて川沿いを歩くことは断念しました。

橋の上は安心か?

 時期が時期なので、こんなことを考えるわけです:

 実際ウイルスは落ちてくれるのでしょうか。たとえば経験的に、数グラムの重さであるビー玉は一度地面に落ちたら勝手に高いところに戻ることは二度とありません。一方で、 10^{23}個つまり1兆×1千億個集めてやっとビー玉くらいの重量になる酸素分子ではどうでしょうか。少なくともマンションの1階から10階に上がって窒息した人はいないので、数十メートルくらいであれば制限なく動き回っていそうです。その間に位置するウイルスはどうなのか、当然疑問に思うわけです。

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図1: 異なる質量の粒子の異なる動態

 ちょうど足の裏が擦れて痛くなってきたので、ウイルスの重量をwikiで調べてみました。 10^{-20}kgから 10^{-19}kgくらいとのことで、この情報からウイルスがどれくらいの高さまで上がってくるのか計算できる気がします。言い換えると、ウイルスは熱エネルギー(正しい表現ではないですが...)でどれほどの位置エネルギーを獲得できるのか、これが分かればよいわけです。ここまで来れば、カノニカル分布だろうと簡単に連想できましょう。

カノニカル分布とは

 カノニカル分布は統計力学の一つの偉大な成果で、理系の分野だけでなく、この前は経済学でも使われているのを見ました。式はまぁGoogleで調べてもらえればいいのですが、日常生活で使う分には次の形で理解すれば十分でしょう (*注1):

 \mbox{エネルギー}{\Delta}E\mbox{を獲得する確率}=e^{-{\Delta}E/{k_BT}}

  T絶対温度ボルツマン定数 k_Bをかけることで、 k_BTは「熱エネルギーの平均」という値になります。この日はだいたい20℃くらいだったと思うので 4\times10^{-21}Jくらいの値になります。生物の体内でのATP加水分解エネルギーがこの10倍くらいの値なので、熱エネルギーで解決できないことはATPで解決するわけです。

 以上から {\Delta}E/{k_BT}は「平均熱エネルギーの何倍のエネルギーをもらうか」という値です。このことを考慮すると、上の式はさらに簡単になります:

 \mbox{平均熱エネルギーの}x\mbox{倍のエネルギーを獲得する確率}=e^{-x}

(*注1) ここでは二状態の系 (E_1, E_2)を仮定して進めています。

ウイルスはかなり重い

 準備が整ったので、計算に進みましょう。ビー玉、ウイルス、酸素分子が、1m高いところに上がれる確率を求めます。位置エネルギーの式 mghを思い出しましょう。ここで、 g=9.8 m/{s^2}です。

 ビー玉が 5\times10^{-3}kgだとすると、1m上がるのに必要なエネルギーは

 (mgh=)5\times10^{-3}\times9.8\times1=4.9\times10^{-2}J

であり、これは20℃での平均熱エネルギーの約 10^{19}倍で、 e^{-10^{19}}\simeq0、つまり1m上がる確率は限りなく0に近いということで、これまでの経験通りです。

 続いて酸素分子は約 5.3\times10^{-26}kgなので、1m上がるのに必要なエネルギーは

 (mgh=)5.3\times10^{-26}\times9.8\times1=5.2\times10^{-25}J

であり、平均熱エネルギーの 1.3\times10^{-4}倍で、 e^{-1.3\times10^{-4}}\simeq0.9999、つまり99.99%の酸素分子は勝手に1mまで上がってこれるわけです。山の上くらいの高さになると、さすがにこの確率が下がってくるみたいですが。

 最後に、軽いウイルス( 10^{-20}kg)の場合を同様に計算すると、1m上がるのに必要なエネルギーは

 (mgh=)10^{-20}\times9.8\times1=10^{-19}J

であり平均熱エネルギーの数十倍くらいで、 e^{-10}=5\times10^{-5}であるのでほとんど上がってこれません。ウイルスって結構重いんですね。実際はくしゃみとかでは水分をまとっているのでさらに重くなりそうです。

 風が吹くか何らかの意思が働かない限り、橋の下で誰かくしゃみしても橋の上の僕は何も怖がる必要がないことが分かりました。かなり家から離れてしまったので、家に着くのはもうしばらく歩いてから。